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東京地方裁判所 昭和44年(ワ)13939号 判決

原告

飯塚義男

原告

荒山要堂

右原告両名訴訟代理人

日笠博雄

被告

山縣達一

被告

社団法人日本海員掖済会

右代表者理事

三村令二郎

右被告両名訴訟代理人

藤井暹

外四名

主文

原告両名の被告両名に対する請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は、原告両名の負担とする。

事実《省略》

理由

(本件事故の発生)

一妙子が、六月三〇日被告掖済会経営に係る被告病院において、同病院の医師である被告山縣から左右腋臭治療のための手術(以下「本件手術」という。)を受けたこと、妙子が、右手術を受けた日に激しい間代性痙攣を起こして意識不明になり、七月三日午前五時三〇分ころ死亡したこと、及び妙子の死亡原因は急性腎不全であるが、右急性腎不全が使用麻酔剤キシロカイン中毒により惹起されたものと推定されることは、当事者間に争いがない。

(本件手術及び妙子の死亡に至るまでの経過)

二〈証拠〉を総合すれば、

1  妙子は、本件手術の一八日前である六月一二日に、松島病院において内外痔核の手術を受け、術後の経過も良好であつた。右痔核手術には、麻酔剤として、血管収縮剤エビナミンを含有しない0.8パーセントノボカイン溶液一五CCが用いられたが、妙子は、別段の異常を起こすこともなく、また、右手術前に行つたキシロカインのスキンテスト(皮内反応)の結果もマイナスであつた。

2  妙子は、六月二六日、実父である原告荒山要堂に伴われて被告病院を訪れ、被告山縣に対して、腋臭があるのでその治療をして欲しい旨を述べたので、同被告は、妙子の左右の腋窩を脱脂綿でふき取り、その臭いから両側腋窩とも腋臭があることを確かめ、手術を要するものと判断した。被告山縣は、その場で妙子を問診して、同人が約二週間前に松島病院で痔核手術を受けたこと及び他に大きい病気をしたことがないことなどを聞いたうえで、妙子の健康状態は腋臭手術に十分耐えられる状態にあると考え、妙子に手術の方法、治療に必要な日数などを説明し、同人と相談の結果、同月三〇日に同人を入院さて左右の腋臭手術を行うことを決めた。

3  妙子は、六月三〇日午前一〇時ころ被告病院に入院し、同一〇時五〇分ころ、術前の準備として腋窩の剃毛、清拭及び血圧・体重の測定を行い、同日午後一時二〇分ころ、手術の前処置として鎖静剤であるグレラン一筒の筋注を受けた。次いで、妙子は、同一時三〇分ころ手術準備室へ入室し、被告山縣が妙子の胸部打聴診、腹部触診を行い、眼瞼結膜を調べて、これらに異常がないことを確めるとともに、血圧を測定して最高一〇〇、最低八〇(以下、100/80のように略記する。)の正常値であること及び体温・脈拍が正常であることを確認し、これらのことから妙子は十分手術適応にあるものと判断し、本件手術に着手することとした。

4  被告山縣は、同日午後一時四〇分ころ、本件手術を左側腋窩から開始したが、その際、麻酔剤としてエビレナミンを含有しない0.5パーセントキシロカイン溶液を用いた浸潤麻酔を行うこととし、まず、腋窩切除予定部位の四隅を刺入点とし、うち一か所に右キシロカイン溶液を少量注入して丘疹テスト(スキンテスト)を行い、マイナスであることを確認した後、右四か所の刺入点から右キシロカイン溶液を右スキンテスト分を含めて二〇CC注入して、局所麻酔を行つた。次に、左腋窩部の皮膚を長径一〇センチメートル、短径三センチメートルの菱形に切除したうえ、創縁部を縫合して、創液が中にたまらないようガーゼドレインを挿入(ドレナージ)し、圧迫包帯をして、同二時一〇分ころ左側腋窩手術を終了した。右終了時点では、妙子は、被告山縣が気分や身体の具合を尋ねたのに対し良好である旨答えるなど意識も明瞭で、その全身状態には何らの変化もなかつた。

5  次いで、被告山縣は、同二時一五分ないし二〇分ころ右側腋窩の手術に着手し、切除予定部位の四隅に刺入点を作り、そこから前同様の0.5パーセントキシロカイン溶液を注入して局部麻酔を行つた後、左側腋窩と同様の手術を行い、同二時四〇分ころ、創縁縫合を終えてガーゼドレインを挿入(ドレナージ)し、腋窩にガーゼを当てた途端、妙子は、突然「右腕が痺れる」と大声を発し、全身に激しい間代性痙攣を起こして間もなく意識不明となり、血圧が40/0までに低下した。

6  被告山縣は、妙子の右の症状はキシロカインによる中毒症状(ショック)であると判断して、これに対する措置として、直ちに閉鎖循環麻酔器による酸素吸入を行うとともに、強心剤としてデカドロン、ビタカンフル、エホチール、痙攣抑制剤として一〇パーセントフエノバール二アンプルを注射し、補液の点滴を開始し、更に、血圧上昇剤としてノルアドレナリン等を投与した。その結果、痙攣発作は持続したものの、午後四時五分ころには、血圧が140/0までに回復した。そして、そのころ、サクシン四〇ミリグラム静注後喉頭筋の痙攣が軽くなつたので、気道確保のため気管内チユーブ(気管カテーテル)を挿入したが、その際、開口器で妙子の口を開くに当たり、同人の歯茎の一部を傷つけた。その後被告山縣は、痙攣抑制剤としてルミナールソーダを四回筋注し、午後五時三〇分には、同じくラボナール0.5グラム溶液を一〇グムラ静注し、その結果午後五時四〇分ころには痙攣発作は消失した。そして、午後六時二〇分ころには、血圧も140/50にまで上昇し、意識は依然として不明のままではあつたが、最低血圧も順次上昇したので、妙子は、午後八時ころ、手術室から病室へ移された。この間、導尿のための尿管カテールが膀胱に挿入され、また、胃分泌物吸引のための胃管カテーテルも挿入された。

7  その後妙子は、一時声をかけると目を動かしたり、瞳孔対光反応良好のときもあつたものの、昏睡状態が続き、被告山縣は、点滴等の措置を適宜行つかが、七月一日午後七時三〇分ころから、妙子に瞳孔縮小がみられるなど意識がやや悪くなつた様子が現われた。そして、同九時三〇分には、当直の佐々木医師と被告山縣が相談のうえ、妙子に対し輸血を始めたが、同一〇時三〇分ころ、妙子の血圧が急に50/0に低下し、早急に血圧を上げないと危険な状態になつたので、輸血を一時中止し、ノルアドレナリン二アンプル、テラプチク二アンプル等の昇圧剤を点滴液に混入して静注した。その結果、妙子の血圧は間もなく90/30まで回復した。そこで被告山縣は、同一一時二五分ころ、体液及び循環液補充のためフイジオゾール、ニコリン、ビタミンK等の点滴を行い、強心剤ネオフイリンM、抗生物質リンコシンを筋注し、次いで、それまでほとんど電解質系統の薬を使つていたことから、たんぱく質を少しでも妙子の体内に入れる必要があると判断して、同一一時三〇分ころから輸血を再開し、そのころ、アドレナリン、ノルアドレナリンを昇圧剤として注射した。

しかし、妙子は、七月二日午前零時三五分ころから血圧の低下傾向を示し、被告山縣は、同零時四〇分ころ再び強心剤ネオフイリンM及び昇圧剤ノルアドレナリンを注射するなどの措置をとつたが、同零時五〇分ころには血圧が70/0まで低下したので、この時点で輸血を止めた。その後、妙子の血圧は、同一時二〇分ころには82/26までもち直したが、同四時一五分ころから再び低下し始め、同四時二五分ころには50/0まで低下したので、被告山縣は、昇圧剤(ノルアドレナリン・テラプチク)を静注し、その後も血圧の低下を防ぐため、同九時三〇分ころまでの間に、繰り返しエホチール等の昇圧剤を注射した。

8  また、前述のとおり、妙子には、気管カニユーレ、胃管カテーテルが挿入されていたため、唾液の分泌や気管等からの分泌液が多く、また、気管カニユーレ挿入の際傷ついた歯茎からの出血もあり、これらが呼吸の障害となるため、これを吸引する必要があり、病棟日誌(乙第五号証)に記載されたものだけでも、妙子が病室に移動した六月三〇日午後八時ころから七月二日午前五時三〇分ころまでの間に、看護婦及び原告荒山要堂らにより、約二〇回の吸引が行われている。また、腋臭手術は、術後創口からある程度の量の創液の滲出を伴うものであるところ、妙子は、右側腋窩にガーゼドレインを挿入したきりで、その上に圧迫包帯を施せないままであつたため、創液の滲出が多く、そのため看護婦はたびたびガーゼの交換を行つた。前記病棟日誌には、七月一日午後七時三〇分から午後一〇時一五分までの間に、六回のガーゼ交換が行われた旨の記載がある。

9  妙子は、七月一日午後一一時三〇分ころから次第に尿量が減少したが、尿管カテーテルを通して若干の排尿はあり七月二日午前一時四五分ころには尿潜血がみられた。しかし、同五時三〇分ころには尿の出が更に悪化し、その後も同様の傾向が続いた。被告山縣は、右のように七月一日午後一一時三〇分ころ、尿量が減少したのをみて、血圧の低下による急性腎不全の発症を疑い、七月二日午前一〇時ころ腎臓の機能検査のため、採血して血糖及び尿素窒素の検査を行い、同一〇時三〇分ころその結果が判明し、尿素窒素は五二ミリグラム・デシリットル(以下、尿素窒素につき単位は同じ。)そして、そのころには自然排尿がほとんどない乏尿状態となつたので、被告山縣は、急性腎不全の診断に達し、たまたまそのころ原告荒山要堂の依頼で被告病院を訪れていた横浜市大学医学部付属病院(以下「横浜市大病院」という。)の酒井博邦講師を介して、人工腎臓の装置のある同病院泌尿器科に対し、妙子に対する人工腎臓装着を要請したが、尿素窒素が五〇程度では人工腎臓の装着はできない旨断わられた。

10  その後、同日午後一時三〇分ころから妙子の容態が悪化し、呼吸麻痺を起こすようになつたので、午後三時ころ再び採血して血糖及び尿素窒素の検査を行つた。その結果によれば、尿素窒素は前回とほぼ同じ五〇であつたが、被告山縣は、妙子の一般状態が悪化していることを考慮して、再度横浜市大病院泌尿科に対して人工腎臓装着の要請を行い、同四時ころ、同大学病院から人工腎臓装置の装着を許可する旨の回答を得た。しかし、妙子の状態は、既に同三時三〇分ころには血圧が60/0に低下し、また、そのころまで僅かに出ていた尿も全くなくなる(無尿状態)など、極めて悪くなつていたので、被告山縣は、人工腎臓装置を装着するため横浜市大病院へ直ちに転医するのは、移動に伴う危険が大きいと判断して、転医を見合わせていたが、その後も妙子の容態が好転する兆候はなかつた。そこで、被告山縣は、同六時三〇分ころ、原告荒山要堂に対して、移動時の危険を覚悟で横浜市大病院へ転医し、人工腎臓装置の装着を希望するかどうか尋ねたところ、同原告は、危険が大きいのでこのまま診てほしいとの意向を示したので、転医を更に見合わせることとした。

11  しかし、妙子の容態は、その後ますます悪化し、血圧は午後八時二五分に56/0、同八時四五分に45/0と低下を続け、体温も上昇し、脈拍は微弱、頻脈となり、ときには結滞を示すようになり、呼吸も浅長となつた。これに対して被告山縣は、エホチール、ソルコーテフなどの昇圧剤を静注するなどの措置をとつたが、これら昇圧剤注射の直後には血圧が一時的に上昇することはあつたものの、血圧の低下傾向は回復しないまま、七月三日午前三時には38/0、同四時三〇分には28/0となり同五時三〇分、妙子は急性腎不全のため死亡するに至つた。

以上の事実(なお、叙上事実のうち、妙子が、六月一二日に松島病院で内外痔核の手術を受けたこと、右手術には、麻酔剤としてノボカインが用いられたこと、被告山縣が妙子の腋臭の診察、手術をしたこと、妙子が六月三〇日の午前中に原告荒山要堂同道のうえ入院し、病室で血圧測定、腋窩剃毛、清拭などの処置を受けたこと、術前の処置としてグレラン一筒の筋注を受け、その後体温、脈拍、血圧の各測定をしたこと、腋窩手術は、左側腋窩ににエビレナミンを含有しない0.5パーセントキシロカイン容液二〇CCを麻酔剤として用いて局部麻酔を施したのち、左側の腋窩手術を行い、その後、右側腋窩に右キシロカイン容液二〇CCを用いて局部麻酔を施したのち、右側の腋窩手術に着手したこと、手術後、創縁の一部にガーゼドレインを挿入してドレナージを行つたこと、左側腋窩手術にあたり注入したキシロカインに対しては何ら異常がなかつたこと、妙子が、右側腋窩手術の際、「右腕が痺れる。」と大声を発し、全身に激しい間代性痙攣を起こして、意識不明に陥つたこと、被告山縣が、右の症状はキシロカインによる中毒症状であると判断したこと、当直医である佐々木医師が、七月一日午前九時三〇分に輸血を開始し、同一〇時三〇分に中止したこと、被告山縣が同一一時三〇分輸血を再開したこと、妙子に対する吸引及びガーゼ交換が行われたこと、妙子に七月一日尿潜血があつたこと、被告山縣が、七月一日、妙子に急性腎不全が起きていると判断したこと、及び妙子が七月三日午前五時三〇分急性腎不全のため死亡したこと、はいずれも当事者間に争いがない。)を認めることができる。

(キシロカイン中毒発生の原因とこの点についての被告山縣の過失の有無)

三原告両名は、妙子のキシロカイン中毒は、被告山縣の局所麻酔施行上又は術前検査の懈怠過失により発生したものである旨主張するに対し、被告両名は右中毒症状の発生は妙子の特異体質に基因する旨主張するから、以下この点につき判断することとする。

1  局所麻酔施行上の過失について

(一)  原告両名は、本件手術において被告山縣は、右側腋窩にキシロカイン容液を注入する際、不注意により腋窩にある動脈、静脈、リンパ管のいずれかに直接キシロカイン容液を注入し、あるいは注射針の不手際な操作により血管又はリンパ管を破損して、その中にキシロカイン容液を流入させた旨主張する。

しかしながら、本件全証拠を検討しても、右事実を認めるに足りる証拠はない。

この点に関し、原告両名は、右側腋窩部位の一部にドレナージが行われたこと、手術後右側腋窩部位のガーゼの交換が頻繁に行われたことは、いずれも右側腋窩からの出血量が多かつたことを示しており、血管等が損傷されていたことは明らかである、と主張する。

しかし、ドレナージを施したのは、右側腋窩だけでなく、左側腋窩も同様であること、右側腋窩部位のガーゼ交換が頻繁であつたのは、妙子が、右側腋窩手術終了直後に重篤状態に陥つたため、圧迫包帯が施せなかつたためであることは、さきに認定したとおりであり、証人大久保高明の証言によれば、一般に、腋窩のような組織が疎である部位の手術を行う場合術後手術部位からの血性分泌物や体液(リンパ液)の滲出が避けられないところから、これら創液を排出して混合感染や腫脹を防止するためドレナージを行うことが稀ではなく、その場合挿入されたドレインを伝わつて滲出してくる創液を吸収するためのガーゼ交換が必要になることが認められるのであつて、これらの事実からすれば、右側腋窩部位にドレナージを行つたこと及びガーゼ交換が頻繁であつたことから、直ちに、動脈、静脈あるいはリンパ管などが損傷されたことを推認することができないことは明らかである。かえつて、〈証拠〉によれば、一般に、動脈内に麻酔剤を注射針で注入することは、動脈内の血圧が高いため、極めて困難であり、仮に、麻酔剤が誤つて動脈内に注入されたとしても、動脈血が脳に達するまで相当の時間がかかるところから、血中濃度が上らず、麻酔の効果が現われないため、手術を行うことはできないこと、リンパ管に注射針を刺入することも、リンパ管が極めて細い管であることから、非常に難しいこと、また、仮に本件で使用された程度の量のキシロカインが静脈内に誤つて注入されたとしても、通常ならば中毒症状は起こらないこと(通常キシロカインを麻酔薬あるいは心筋硬塞又は不整脈に対する治療薬として用いる場合、0.5パーセント以上の濃度のものを五〇ないし一〇〇ミリ静脈内に注入するが、それでも痙攣は起こらない。)、被告山縣は、本件手術に当たり、キシロカインが血管内に注入されないよう、定式に従い細心の注意を払つて注射を行つたことが認められ、本件手術では、手術自体は順調に施行できたことからしても、キシロカインが誤つて血管あるいはリンパ管内に注入されたことはないと考えられ、仮に、キシロカインの一部が血管内に流入した事実があつたとしても、そのことと妙子の中毒症状との間には相当因果関係がないものと認めるのが相当である。

したがつて、原告両名の右主張は、採用するに由ないものというべきである。

(二)  次に、原告両名は、腋窩部の麻酔には、エビレナミンを含有する一パーセント又は二パーセントキシロカインを使用するべきであり、しかも、エビレナミンを含有しないキシロカインの一日の用量は塩酸リドカインとして最高0.2グラムであるところ、本件では、妙子は本件手術の一八日前に痔核手術を受け、その際0.8パーセントのノボカイン及びキシロカインの麻酔注射を受けていること、及び右痔核手術のため体力が弱つていたのであるから、麻酔剤の使用は特に慎重でなければならないのに、被告山縣は、これらの事情を知りながら本件手術の麻酔剤としてエビレナミンを含有しない0.5パーセントのキシロカインを使用し、しかも、これを約三〇分の間に四〇CC注入した点に過失がある旨主張する。

被告山縣が、本件手術において、麻酔剤としてエビレナミンを含有しない0.5パーセントキシロカイン容液を使用し、これを三五分ないし四〇分の間隔で二〇CCずつ合わせて四〇CCを左右の腋窩に注入したこと、妙子は本件手術の一八日前に痔核手術を受け、その際には麻酔剤として0.8パーセントのノボカイン溶液が使用されたことは、さきに認定したとおりである。しかし、〈証拠〉によれば、同被告が本件手術でエビレナミンを含有しない0.5パーセントキシロカイン溶液を用いたのは、エビレナミンには末梢血管収縮作用があるため、これを含有するキシロカイン溶液を使用すると血管への吸収が遅くなり、麻酔効果が長くなる反面、これが醒めた後にかえつて多量に出血することがあり、本件手術のようにもともと相当量の創液が出ることが予想される手術では、エビレナミンを含有しない麻酔剤を使用する方が適当であると考えたことによるものであることが認められ、〈証拠〉によれば、一般にキシロカインを使用した浸潤麻酔には、0.5パーセントないし1.0パーセントの濃度の溶液が使用されること、キシロカインは、エビレナミンと配伍しなくても十分麻酔効果を生じるものであり、0.5パーセント程度の低濃度のキシロカイン溶液は、むしろエビレナミンを含有しないものを使用する方が普通であること、0.5パーセントキシロカインの場合、四〇CCという本件での使用量は、医師がごく普通に用いる量であり、通常ならばこの程度の量で中毒症状が起こることはないこと、一〇〇ないし二〇〇ミリのキシロカインを二週間間隔で施用したとしても危険性はなく、まして、妙子が、本件手術の一八日前に、キシロカインよりも毒性の小さいノボカインによる麻酔を施行されたことは、本件キシロカイン中毒の発生に何ら影響を与えるものではないことが認められる。なお、〈証拠〉中には、エビレナミンを含まない0.5パーセントキシロカインの成人に対する基準最高用量は一回四〇ミリリットルである旨の記載があり、また、〈証拠〉によれば、キシロカインの一日の安全最大使用量は三〇〇ミリグラム(0.5パーセント溶液の場合には、六〇ミリリットル)である旨の記載があるが、〈証拠〉によれば、右の各数値は一応の目安にすぎず、実際には、医師一般の常識として、キシロカインの限界使用量はこれよりはるかに大きいと考えられており、実際にも右の基準最高用量を越える量が使用されることが稀ではないことが認められる。また、〈証拠〉によれば、妙子が松島病院で受けた程度の痔核手術では、術後一週間程度で体力が元どおり回復するものであり、妙子自身、本件手術が行われた六月三〇日当時は、健康状態は良好であつたものと認められる。

右の各事実からすれば、被告山縣が本件手術の際に行つた浸潤麻酔における麻酔剤の選択、使用量及び施用法には何ら異常な点は認められず、また、当時妙子の体力が衰弱していたなど特別な事情も認められないから、被告山縣の本件麻酔施行上の各措置には、何らの過失も認めることはできない。

したがつて、原告両名の前記主張も理由がないものというほかない。

2  術後検査の懈怠について

次に、原告両名は、被告山縣が、手術開始前に当然必要とされている体温・脈拍の測定をせず、血液や尿を採取して肝機能及び腎機能を検査することもなく、また、血色素量、ヘマトクリット、血沈の検査も行わなかつた点に過失がある旨主張する。

被告山縣が、本件腋窩手術前に、妙子の血液検査並びに肝機能及び腎機能の検査を行わなかつたことは、当事者間に争いがなく、同被告が、六月二六日の初診の際の問診で、妙子が二週間ほど前に松島病院で痔核手術を受けたことを知つたが、同女が他に大きい病気をしたことがない旨を述べたことと同女の当時の健康状態から、同女は十分本件手術に耐えられる状態であると判断したこと、手術当日である六月三〇日には、妙子の血圧・体重の測定を行い、かつ、胸部の聴打診、腹部触診を行い、眼瞼結膜を調べ、これらに異常がなかつたこと、及び血圧、体重、脈拍が正常であつたことなどから、妙子は十分腋臭手術が行える状態(手術適応)にあると判断して、本件手術を施行したことは、さきに認定したとおりである。

ところで〈証拠〉によれば、腋臭手術程度の比較的軽い手術では、血色素量、ヘマトクリット、血沈等の血液検査や肝機能、腎機能の検査までは行わない方が普通であり、仮にこれらの検査を実行したとしても、キシロカインによる中毒の発生を未然に防止することには役立たないものであることが認められる。

してみると、本件手術における術前の措置としては、被告山縣が行つた、右認定の一連の診察、検査等で十分であると認めるを相当とすべきであり、右認定を覆し、同被告が、原告両名主張の各検査を行わなかつたことと妙子の死亡との間に相当因果関係があつたことを認めるに足りる証拠はない。

したがつて、原告両名の前記主張もまた理由がないものというべきである。

3  叙上認定説示のとおり、被告山縣には本件手術に当たり麻酔施行上の過失は存しないものというべきところ、〈証拠〉によれば、麻酔剤による中毒(副作用)が発現する態様としては、極微量の麻酔剤が体内に注入された直後に、突然血圧下降、呼吸停止のショック症状が発現する、アナフイラキシーと呼ばれている場合と麻酔剤の使用量が一定量に達した場合に、全身の痙攣、血圧下降、呼吸抑制等の中毒症状が発現する場合とがあること、前者(アナフイラキシー)の場合、患者死亡後の解剖所見に胸線の異常が発見される症例があり、胸線リンパ体質と呼ばれているが、解剖されない場合もあつて、そのすべてについて原因が明らかにされている訳ではないこと、しかし、いずれにしても、患者の体質的な因子によつて起こる異常反応と考えられており、このような体質を特異体質と呼んでいること、また、後者の場合、どの程度の量を使用すれば中毒症状が発現するかは、使用される麻酔剤の化学的性質・毒性の大小・濃度、注入される部位、麻酔の方法(脊椎麻酔、伝達麻酔、浸潤麻酔、表面麻酔等)等によつて左右されるが、本件のように、エビレナミンを含有しない0.5パーセントキシロカイン溶液を用いる浸潤麻酔の場合、五〇〇ミリ前後の使用によつてはじめて中毒症状が発現すると考えられていること、したがつて、前示のとおり、本件のように、エビレナミンを含有しない0.5パーセントキシロカイン溶液を合わせて四〇CC使用しただけで中毒症状が発現することは通常ありえないことであり(右程度の量は、キシロカインを不整脈の治療薬として用いる場合よりも少量であること。)、本件中毒反応は、妙子の体質に起因する異常反応と考えるほかないことが認められ、右認定の事実に前記認定のとおり、被告山縣に本件局所麻酔施行上の過失が認められなかつた点を総合すれば、本件キシロカイン中毒は、妙子の体質的な要素に起因する異常反応であると認めるのが相当である。妙子が、左腋窩手術の際にはキシロカインに対して異常反応を示さなかつたこと、本件手術前及び六月一二日に松島病院で施行されたキシロカインに対するスキンテストにいずれもマイナス反応であつたこと(なお、スキンテストの正確性に疑問があることは後述する。)、及び妙子の示した中毒症状が、前述のアナフイラキシーの場合のショック症状に該当しないことは、前段認定に供した証拠に照らし、いずれも右判断を左右するものではない。

4  原告両名は、本件キシロカイン中毒が妙子の特異体質に基因する場合でも、被告山縣は、本件手術に当たつて、(1)手術前に体質についての問診をしていない、(2)特異体質を発見するためには、鼻孔中にキシロカインをたらして、血圧、脈拍などを測定する検査(鼻孔テスト)が最も信頼性が高いにかかわらず、これを行つていない、(3)術前に、尿検査、肝機能検査、腎機能検査、体重測定などを行わないなど、患者の体調の正常な診断を怠つた、(4)異常体質者の場合には、体調が不十分であれば症状が重くなる可能性があるから、術前に、血色素量、白血球数、ヘマトクリット、血沈などの一般外科医が行う血液検査を施行すべきであつたのに、これを怠つた点に過失があり、そのため、妙子の特異体質を発見できないまま手術を施行し、本件キシロカイン中毒を惹き起こしたものである旨主張する。

しかしながら、〈証拠〉によれば、現在の医学においては、前述のようなキシロカインに対する異常反応を予見するには、問診により、過去にキシロカインに対する中毒の既往症があることがわかれば、これを予見の手がかりとするのが唯一の有効な方法と考えられていること、スキンテスト、鼻孔テストではこのような異常反応を正確に予見することは難しく、特に、鼻孔テストは危険を伴うとして、現在一般に行われていないこと、妙子は、過去にキシロカイン等の麻酔剤による中毒の既往症がなかつたこと、以上の事実が認められ、右事実によれば、妙子については、適切な問診がなされたとしても、キシロカインに対して異常反応を起こす体質であることを予見することは不可能であつたというほかはなく、一応スキンテストを実施し、異常ないものと認めて本件局部麻酔を施行した被告山縣の処置には過失はないというべきである。もつとも、〈証拠〉には、麻酔剤に対する過敏症のテストとしては、鼻孔テストが最も優れている旨の記載があるが、証人池園悦太郎及び同衣笠昭の各証言に照らし、現在、右のような説が一般に支持されているものとは認められないから、右の見解は採用することができず、他に叙上判断を左右するに足りる証拠はない。

また、本件全証拠をもつてしても、術前に原告両名主張のような各検査を行うことがいわゆる特異体質を予見するための有効な方法であるとの事実を認めることができないから、原告両名の前記(3)及び(4)の主張は失当である。なお原告両名は、被告山縣が、グレラン二CCを筋注した後に問診、体温・脈拍・血圧の測定をした旨主張し、右措置を非難するが、〈証拠〉によれば、右のような措置は、一般の外科医のとる措置として、一概に不当なものとはいえないことが認められるから、原告両名の右主張も失当である。

(キシロカイン中毒発生後の被告山縣の過失の有無)

四原告両名は、キシロカイン中毒発生後の被告山縣の措置に過失があり、これが妙子の死亡に影響を及ぼした趣旨の主張をするから、以下この点について判断することとする。

1  原告両名は、被告山縣は、妙子がキシロカイン中毒により重篤状態に陥つた後、右側腋窩から多量の出血をしていたのに、これに気付かず、その原因及び症状の究明をしなかつた過失がある旨主張する。

しかし、腋臭手術が相当量の創液の滲出を伴うものであること、ガーゼ交換が頻繁に行われたのは、右側腋窩に圧迫包帯が施せなかつたため、ガーゼを交換して創液を吸収したためであることは、さきに認定したとおりであり、妙子の右側腋窩から、通常の腋臭手術の際に出る創液以外に、多量の出血があつたこと及び被告山縣がこれに気付かず、その原因、症状を究明しなかつたことを認めるに足りる証拠はないから、原告両名の右主張は採用するをえない。

2  また、原告両名は、六月三〇日午後八時から七月一日午前七時四〇分までの間に吸引が頻繁に行われ、このことからみて、妙子にはキシロカイン中毒に起因する肺浮腫などが生じていたものと疑われるのに、被告山縣は、これを放置し、とるべき措置を怠つたため、症状を悪化させた旨主張する。

しかし、吸引が頻繁に行われたのは、妙子の体中に気管内チューブ、胃管カテーテルが挿入されていたため、唾液の分泌や気管等からの分泌液が多く、また、気管内チューブ挿入の際傷ついた歯茎からの出血もあつたところから、これらが呼吸の障害にならないようにするためであつたことは、さきに認定したとおりであり、また、被告山縣達一本人尋問の結果によれば、七月二日午前零時四〇分に被告山縣が妙子を診察した時には、妙子にはラッセル音が聞こえなかつたこと、このことは、少なくとも右の時点までは、妙子に肺浮腫が生じていないことを推認させるものであることが認められる反面、妙子が重篤状態に陥つた後肺浮腫などの症状が生じたことを認めるに足りる証拠はないから、原告両名の右主張も理由がない。

3  次に、原告両名は、被告山縣には、多量の薬剤等を点滴により輸液したが、合併症に対する考慮を欠いていたため、何らかの合併症(発熱、電解質異常、血圧降下、呼吸困難、肺浮腫、静脈炎等)を発生させ、妙子をますます重篤状態に陥れた過失がある旨主張するが、右主張事実を認めるに足りる証拠はないから、右主張は失当である。

4  更に原告両名は、被告山縣には、七月一日には妙子の症状を急性腎不全であると判断しながら、その治療に必要な血液検査を迅速に行わず、そのため、転医などの適切な措置をとりえず、七月二日午前一時四五分には尿潜血があつたのに、その原因の究明を怠り、また、手術後詳細な尿検査をしないなど、泌尿疾患である腎不全に対して、有効な措置をとらなかつた点に過失がある旨主張する。

ところで、妙子の尿量の減少は、七月一日午後一一時三〇分ころから始まり、七月二日午前五時三〇分ころから悪化し、同一〇時三〇分ころには、自然排尿がほとんどない乏尿状態になり、同日午後三時四〇分過ぎころからは無尿状態になつたこと、途中、七月二日午前一時四五分ころには、尿潜血がみられたこと、被告山縣は、七月一日午後一一時三〇分ころ、尿量が減少したのをみて、血圧低下による急性腎不全の発生を疑い、七月二日午前一〇時三〇分ころ、尿量窒素の検査結果と妙子が乏尿状態に陥つたことから、急性腎不全の診断に達したこと、そして、そのころ、横浜市大病院泌尿器科に対して人工腎臓装置の装着を依頼したが、尿素窒素の値が基準値に達しないことを理由に、断わられたこと、しかし、同日午後一時三〇分ころから妙子の容態が悪化したため、同被告は、再び血液検査をしたうえ、再度横浜市大病院泌尿器科に対して人工腎臓装置の装着を要請し、その承諾が得られたので、転医を検討したが、妙子の一般状態が更に悪化し、原告荒山要堂も転医に反対したので、これを見合わせたこと、この間、同被告は、妙子の症状に応じて血圧を上昇させるための措置を繰り返えし行つたこと、以上の事実はさきに認定したとおりである。

しかして、〈証拠〉によれば、膀胱にカテールが挿入されている場合には、その機械的な刺激によつて尿潜血が起こることが稀ではなく、尿潜血があるからといつて直ちに腎不全を疑うべきものではないこと、妙子に腎不全が生じたことを確実に診断しうる時期は、同女が乏尿状態になつた七月二日午前一〇時三〇分ころ以降であること、血糖・尿素窒素の検査は、人工腎臓装置装着の適否の判断の資料を得るために行うものであることが認められる。

してみると、被告山縣は、妙子の急性腎不全の発症を適期に診断し、その原因である血圧の低下を抑制し昇圧するための医療措置を適切に行うとともに、人工腎臓装置の装着の必要を考えて、血糖・尿素窒素の検査を二回にわたり実施したうえで、右装置のある横浜市大病院へ装着の要請(右装置装着のためには、転院が当然の前提である。)を行つたのであるから、同被告のとつた妙子の急性腎不全に対する措置には欠けるところがなく、その点に過失があつたとは認められない。したがつて、原告両名の前記主張も理由がない。

5  次に、原告両名は、被告山縣が、七月一日午後一〇時三〇分ころ一旦中止した輸血を、同日午後一一時三〇分ころ、尿検査も実施しないまま再開したことにより、溶血反応、発熱反応、肺浮腫などの合併症を生じさせ、妙子の容態をいつそう悪化させ、また、輸血を実施する際、不適合輸血を予防するための交叉試験を行わなかつた(妙子の腎不全は、不適合輸血に起因した疑いがある。)旨主張するが、右主張事実を認めるに足りる証拠はない。

6  更に、原告両名は、ノルアドレナリンは、強力な血管収縮作用を有し、一CCを静脈に注射すれば、中毒死を起こしうるものであるのに、被告山縣は、これを、七月二日午前零時四〇分に0.2CC、同四時二五分に一筒を、それぞれ静注した点に過失がある旨主張する。

しかしながら、〈証拠〉によれば、血圧の下降が著しい場合に、血圧を上げるための救急薬としてノルアドレナリンを静脈に注射することは、一般的に承認され、かつ、現実にも行われている通常の方法であることが認められるから、ノルアドレナリンを注射することに過失があるとする原告両名の主張は、その前提に誤りがあり、失当というほかない。

(被告両名の責任の有無)

五以上の次第で、被告山縣には、本件手術における局所麻酔の施行、術前、術後の診療措置に原告両名主張のような過失が存しないことが明らかであるから、進んでその余の点につき判断するまでもなく、同被告及びその使用者たる被告掖済会の不法行為責任は成立しないものというべきである。

また、原告両名は、被告掖済会につき、予備的に、債務不履行責任を主張し、妙子の被告掖済会との間に妙子の左右腋臭の治療を目的とする診療契約(準委任契約)が成立したことは、前叙認定の事実に照らして明らかであるが(なお、妙子に対する診療が健康保険法に基づく保険診療であることは、患者である妙子と診療機関である被告掖済会との間に診療契約の成立を認定する妨げとはならない。)、被告掖済会は、右治療契約上、一般の診療機関として通常要求される程度の注意をはらつて腋臭の治療を行えば足りるもの(どのような場合にも必ず腋臭治療の効果をあげなくてはならない筋合のものではない。)と解するのを相当とするところ、同被告の履行補助者として診療に当たつた被告山縣において、前記認定説示のとおり相当の措置をなしたと認められる本件においては、その余の点につき判断するまでもなく、被告掖済会には債務不履行はないものといわなければならない。

(むすび)〈省略〉

(武居二郎 魚住庸夫 市村陽典)

被告両名主張の診療経過〈省略〉

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